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朝鮮民主主義人民共和国・建国の歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝鮮人の前提 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝鮮民族を考えると過去、朝鮮半島は永いシナの属国の歴史があり、シナ人の生き様、半島の両班文化と階級制度、奴隷制度に大きく影響を受けた。 そこに突然、日韓併合、朝鮮人は突然、自由を知り、皆が覚醒した。 そして、個人主義が台頭、更に自己都合主義へと変貌を遂げた結果、互いに思いやる精神が醸成されず欠落、自己都合でしか生きる事が出来無くなったのであろう。 日本人は今年皇紀2675年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から僅か100年余り、朝鮮人に人格が備わるハズが無かろう。 |
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建国の歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1948・9・9 朝鮮民主主義人民共和国独立・建国。 北朝鮮はソ連による朝鮮占領期に国家の基盤が形成された。 建国当初、北緯38度線以北を領土としたが、朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)以北が領土である。 韓国同様、嘘が多い国である。 |
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ソ連は、東ヨーロッパの衛星国に対して採った方針を踏襲し、第二次世界大戦期をソ連で過ごした朝鮮人共産党員に、このんで権力を与える方針を持っていた。 ※朝鮮半島の共産主義者はソ連のスパイとして行動していたのであろう。 |
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2015・3・31 産経ニュース 龍谷大教授 李相哲 必見 満州国関連記事 名をはせた普天堡戦闘…実態は犠牲者幼児1人 虚構の進軍命令、ソ連軍は「対日戦に参加させず」 |
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「記事内容抜粋」 金正日(キム・ジョンイル)は2010年8月、父、金日成(イルソン)が学んだ中国吉林市の毓文(いくぶん)中学校を訪れた。 2年前に脳卒中で倒れてからは体調が優れず、無理を押しての外遊だった。 真偽は不明だが、後継者の金正恩(ジョンウン)が同行したとも伝えられた。 事実なら「革命発祥地」として、見せておかなければならない何かがあったのか。 1927年2月、日成は父、金亨稷(ヒョンジク)の知り合いを頼りに毓文中を訪ね、中学2年に編入した。 旧満州で漢方医をし、独立運動にも携わった亨稷は、地元朝鮮人社会でそれなりに名の知られた存在だったようだ。 日成は回顧録『世紀とともに』で、こう振り返る。 「吉林にいる名士らは、ほとんど父と面識があった。父の親友らの家を頻繁に出入りし、そこで独立運動指導者たちに出会った」 日成は「金日成」という名が「祖国」でどう伝わり、実年齢がどのような反響を呼ぶかを熟知していた。 それを利用しようとしたソ連の思惑をも逆手に取って瞬く間に権力を手中にする。 駐在所はぬけの殻 “消去法”の地位 利用しようとしたソ連「若くうれしい」 ※金日成の北朝鮮誕生秘話であろう。 朝鮮半島は嘘だらけ、北も南も建国に至る歴史は嘘で飾られている。 シナも同じだが・・・日本以外、北東アジアは嘘つき国家ばかりである。 |
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2015・7・28 産経ニュース (1/5ページ) 龍谷大教授 李相哲 朝鮮戦争時の“英雄”が謎の死 「世襲はあり得ない」公然と反対後、疑惑だらけの「事故」 |
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「記事内容抜粋」 金正日(キム・ジョンイル)が手にした権力は、実務レベルでは父、金日成(イルソン)をしのぐものだった。 一方で、権力掌握過程を間近で見てきた黄長●(=火へんに華)(ファン・ジャンヨプ)が「金正日が党機構を即興で動かすようになると、思い付きの政治を誹謗(ひぼう)する声が高まった」と回顧録に記すように、独断・専横に対する不満が朝鮮労働党内にくすぶっていた。 そんな反感に対し、正日は「秘密警察の数を増やし、自分を中傷している疑いがあるとの密告を受けると、容赦なく逮捕して処断し」(黄)、力でねじ伏せていった。 そうした重苦しい空気にあっても反対の声を上げる幹部がいた。 代表格が、副総理兼軽工業委員会委員長の南日(ナム・イル)と副主席の金東奎(ドンギュ)、対南工作担当の党書記、柳章植(リュ・ジャンシク)だ。 なかでも、朝鮮戦争時に世界的に名が知られた政権重鎮の南日は「共和国と称する北朝鮮で、封建王朝のように世襲とはあり得ないことだ」と、正日後継体制に公然と反対を表明した。 「敵は美男子」韓国紙がくぎ付け 香港紙が「金日成が殺害」と疑惑報道 「騒いだら君も私も終わりだ」 中略 抗日パルチザン出身の東奎は、戦闘中に負傷し、片方の腕を失った「英雄」だ。 さらには、日成と別の副主席、金一(イル)に次ぐ3番目の実力者で、実直な性格から精神的な支柱として慕う幹部も多かった。それだけに、「英雄」からの表立った批判は、正日にとってこの上ない痛手となった。 |
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建国後の歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2015・6・23 産経ニュース (1/6ページ) 龍谷大教授 李相哲 【秘録金正日(30)】 北朝鮮版「紅衛兵」、未婚男女をけしかけ権力層を刷新 「党問題は正日同志に集中させよ」 |
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「記事内容抜粋」 1973年は、金正日(キム・ジョンイル)にとって、公私ともに充実した年だった。 映画女優出身の成恵琳(ソン・ヘリム)と同棲(どうせい)し、長男、金正男(ジョンナム)を授かりながら、他の女性とも結婚し「正式」に所帯を持つことになる。 《ある日、恵琳が3歳(数え年)になった子供(正男)を背負って庭の桃の木の下にいると、正日の妹、金敬姫(ギョンヒ)が兄を連れにやってきた》 新しい花嫁を迎える日の正日の様子を、恵琳の姉、成恵琅(ヘラン)は手記『北朝鮮はるかなり 金正日官邸で暮らした20年』でこう記す。 《その日が「宴の日」とは知っていただろうに、正日は、妹に背を向けて寝てばかりいた。「行こうよ、お兄さん。行こうよ」。姫君(敬姫)は返事もしない兄を揺さぶり起こして連れて行った。恵琳は子供を背負って木の傍らでぼんやりとたたずんでいた》 別の女性を迎える正日と恵琳の微妙な心境が垣間見える。 花嫁はエリートの娘 全党員に「赤手紙」 「党中央」呼称でメディアに登場 中略 英柱は何ら権限のない副総理に降格され、正日は父に次ぐ権力を手にした。 政策決定者となった正日を指す「党中央」という特別な呼称が北朝鮮メディアに登場するのはこのときからだ。 「後継者への階段」編おわり |
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2015・8・4 産経ニュース (1/5ページ) 龍谷大教授 李相哲 【秘録金正日(36)】 「米国のやつらを懲らしめてやれ」第2次朝鮮戦争危機に乗じ批判者を粛清 |
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「記事内容抜粋」 副主席の金東奎(キム・ドンギュ)による金正日(ジョンイル)後継体制批判が噴出した1976年6月の朝鮮労働党中央政治委員会会議の翌月、金日成(イルソン)は、政治委会議を再招集する。 危機にあっても常に日成サイドに立ってきた抗日パルチザン出身の政権重鎮、崔賢(チェ・ヒョン)や金一(イル)、崔庸健(ヨンゴン)の支持の下、これ以上、批判が尾を引くのを断ち切ろうとした。 ところが、崔賢は人民武力部長のポストを呉振宇(オ・ジヌ)に譲ったばかり。 東奎より上席の副主席、金一は老いて往時の力を失っており、庸健は病欠した。 崔賢と金一は、東奎に「自己批判」を促し、事態の収拾を図ろうとするが、東奎はこう言ってかたくなに拒んだ。 「私は金正日トンム(同志)に反対するのではありません。工作(仕事)方法上、見直すべき点があると言っているのです」 総理に起用され間もない朴成哲(パク・ソンチョル)ら他の政治委員はそろってだんまりを決め込む。 揚げ句は、党組織指導部副部長で、対外工作を担う連絡部(後の対外連絡部)長の柳章植(リュ・ジャンシク)まで東奎に同調し、正日非難を始める逆効果を生んだ。 「引っ込んでいる」上司をないがしろ 「気概を見せてやれ」「銃は使うな」 20万人を平壌から追放 中略 準戦時体制は翌年夏まで続き、正日は、それに乗じて金東奎と柳章植の追い落としに成功する。 77年10月の党政治局会議で、東奎は民心を乱した罪に加え、裏切り者と名指しされた。 柳はスパイ罪に問われ、ともに北部の山奥に監禁された。 正日主導ででっち上げられた調査資料が証拠とされ、疎開事業での混乱の責任までなすり付けた 2人に同調した軍幹部の多くも粛清される。 人民武力部副部長の池炳学(チ・ビョンハク)や、同副部長で成沢の叔父の張正煥(ジョンファン)、党検閲委員長の池京洙(ギョンス)は保衛部に連行された。 苛烈な追及が続くなか、京洙と炳学は相次ぎ死亡。 成沢をかつては庇護(ひご)した正煥までも職を解かれ、北部慈江道(チャガンド)に放逐される。 |
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